5月のお稽古は、名古屋でも新緑が映え、お花も初夏の雰囲気を感じるものをご用意いただき、緑が徐々に深まっていくことをつぶさに感じるお稽古となりました。それぞれの方の都合から、やや少ない人数でのお稽古になりましたが、先生のお話をゆっくりお聞きする機会を得ることができました。まずはお稽古の準備をしてくださった先生、先輩方にお礼申し上げたいと思います。
寄付きに緑風としたためてあるお色紙ご用意いただきました。緑風とは青葉を吹き渡る初夏の風だそうです。
主菓子はぬれ燕という名がつけられていました。燕も巣作りしているころでしょうか。主菓子をいただくことも楽しみの一つです。
今回は風炉のはじめということで、棚物ではなく、基本の運び点前のお道具をご用意いただきました。写真はございませんが、お水指は遠山の絵付けがほどこされていました。個人的には、お濃茶の割稽古を少しずつ始めさせていただいたこともあり、基本的なお点前を落ち着いて拝見させていただく機会を得ることができました。
主茶碗は志野
替茶碗は燕のお茶碗です。
お棗は青楓のお棗。青葉が鮮やかです。
お掛け物は「薫風自南来」、当代御家元の筆です。
「薫風自南来」の出典は「全唐詩」巻4、唐の文宗皇帝の起承の句
人皆苦炎熱 我愛夏日長 (人は皆炎熱に苦しむ 私は夏の日の長きを愛す)
を受けて文人の柳公権(りゅうこうけん)が転句として
薫風自南来 殿閣生微涼 (薫風自南来 殿閣微涼を生ず)
と詠んで一篇の詩としたとあります。夏の日のカンカン照りの暑さをいやがるけれども、私はその夏の日が一年中で一番長いのが大好きである。暑い暑いといっても、時折り、木立を渡ってそよそよと吹いてくる薫風によって、さしも広い宮中もいっぺんに涼しくなり、その心地よさ、清々しさはむしろ夏でないと味わえないという意味だそうです。この詩に対して、約200年後に批判的な詩を蘇東坡によって作られたそうですが、そのご説明は割愛させていただきます。
禅語としては、大慧禅師が、「薫風自南来、殿閣生微涼」と聞いて、大悟されたとされたというお話があるそうです。
意味としては、私たちは何かというと得失にこだわり、利害にとらわれ、愛憎にかたより、善悪にこだわり、迷悟にとらわれ、凡聖にかたよって、右往左往する毎日です。しかし、それらの対立的観念を一陣の薫風によって吹き払ってしまえば、こだわりもなく、とらわれもなく、かたよりもない、自由自在なサッパリとした清々しい涼味を感じることができます。そのカラッとした、一切の垢[あか]の抜け切った無心の境涯を「殿閣微涼を生ず」と詠ったそうです。
もともとは「炎熱」などの表現から真夏の暑さの中作られた少々やせ我慢的な意味のある詩なのかと思いますが、その詩が時代が進むにつれ、禅の精神で解釈されています。僭越ながら個人的な見解を述べさせていただきますと、5月のお掛物なので、初夏の兆しを薫風が南から涼やかに運んでくることと、禅の精神的な清々しさを同時に楽しむお掛物ということでよろしいのではないかと思います。素直な気持ちで楽しませていただきました。
お花はてっせん。紫色が鮮やかで、初夏の訪れをひしひしと感じました。お花入れは竹組み。形は決まった形ではないとのことです。茎の部分を想像させる高さのように感じました。「花は野の花のように」という言葉を思い出しました。
後半は姫檜扇(ひめひおうぎ)をご用意いただきました。お花は季節ごとにほどよく成長したものをお入れいただいていることを思いますと、誠にありがたく思います。
正直申しまして、目の前のことに必死で、お道具などのご説明を聞き逃してしまったことが今月は多かったと思います。反省して来月に臨みたいと思います。5月も楽しくお稽古させていただきました。先生、先輩方に重ねてお礼申し上げます。(M.D記)